magazine40
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■はじめに昭和62年llD京都府トラック協会が栄光に輝く40周年を迎えるにあたり、歩んできた足跡を回顧したいと思います。■戦前から終戦までわが国において自動車がはじめて使用されたのは、明治30年代と云われている。そして自動車交通及びその事業に国家行政が及んだのは、第1次大戦後の大正8年以降である。当時は全国7千台程度であったが、自動車交通の公共的取締り、その事業の統一的指導等が困難視されたので、大正8年に自動車取締例(内務省令第1号)が公布され、初めて全国を統一した形で自動車の取締りが行われることになった。その後昭和6年に至り、自動車事業の監督法規として、自動車交通事業法が公布され、この法律が自動車交通最盛期における重要な指針となり、昭和22年道路運送法ができるまでの政治的・経済的変動の最もはげしい時代の規範であった。京都での自動車数は、明治45年に4台であったが、大正7年に98台、8年に149台、その後昭和2年に1千台を突破して1063台『昭和5年には1657台、うち円タク820台、乗合56台、タクシー139台、ハイヤー224台、トラック255台、霊柩車11台、 トラクター2台寝台車2台、自家用車148台、この外に当時無税車といわれた公用車が約550台あった』ということで2千台を突破している。この頃から貨物自動車運送事業が確立されてきたと見られる。「昭和11年版京都自動車営業組合員名簿」によると、貨物自動車運送事業を営むものが、京都市内では250名に達しており、別に小型貨物自動車運送事業者が130名あったが、ほとんどが1台もちであったと思われる。こうした経過をたどって、昭和13年9月3日「京都貨物自動車営業組合」が結成されたが、そのときの組合長、川橋豊次郎氏の式辞によると「貨物自動車は現在におきましては、産業上は勿論、国防上の必需機関として、ますますその重要性を認識されるに至ったのでありますが、現下の国策に基づき、ガソリンは規制され、かてて加えて深刻な不況の影響―-31-―
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